ある寒い冬の日のこと。
シナモン＝ラベンダーは夕暮れの中、人ごみで溢れる雑踏をひた走っていた。
小さい彼女には、家路へと急ぐ人の波をかきわけて進むのは少々骨が折れることだった。
パン屋のアルバイトを終えて、ミラボア郊外にあるこじんまりとした、だけど居心地のいい我が家へ帰る途中だった。
（家は知り合いのドワーフのおじいさんに建ててもらった）
夕焼けに染まる町を外門へ下りながら、スカートを翻して帰るその姿には何か焦りが見られた。
どうして彼女がそんなに急いでいるのかわからないが、何かに急き立てられるように、オレンジ色の逆光の中を走っていた。
勉学と魔法を学ぶためにやってきたミラボアだったが、少し彼女には窮屈だった。
彼女は早く一人になりたかった。自分が何を目的に生きているのかわからなかった。
しかし彼女はバランスを崩し、往来の真ん中で倒れてしまった。

「うぅっ・・・」

道行く人は小さな彼女に気づくことなく通り過ぎていく。
もらったパンは死守したが、その代わり膝をすりむいてしまった。
その時、涙ぐむ彼女の眼前に小さな手が差し伸べられた……

思えば彼女の人生は少し彼女の手に余るものだった。
生まれてすぐ後に流行り病に罹り、3週間もの間、死の淵を彷徨った。
その時、何か自分の関係ないところで将来が決定されていくような感覚がした。
自分の中から何か生きる活力のようなものがすーっと流れ出ていくような感覚がした。
彼女の病弱な体はすぐに何らかの病を誘発し、周りの人に手を焼かせた。
そのことは彼女を気弱にし、いつもおどおどとした態度をとらせた。
両親は彼女に優しかったが、タビットの掟によって成人を迎えるとすぐに独り立ちさせられた。
唯一使う事の出来た妖精魔法を学ぶ事を決めたが、それ以外に選択肢がなく、仕方なく決めたものである。
ミラボアに住んで1年になるが様々な人の手を借りてようやく生きている。
最初は懐いてくれなかった妖精たちとも親しくなり始めた。
その容姿や謙虚な性格から誰からも愛される、良い子だったが、
彼女はいつも誰かの手を借りなければ生きられない存在だと自分のことを思っていた。
彼女は非常に泣き虫で寂しがりやだった。
しかし他人にそれをはっきりと伝える事ができなかった。
それを伝える事で鬱陶しがられるのが怖かった。
（そんなことはなかった。彼女の被害妄想だった）
彼女自身が彼女を苦しめていた。

「ほああ……お嬢さん、大丈夫ですかっ！これ、使ってくださいっ！」

逆光でよく顔は見えない。
しかしそのシルエットからシルクハットを被った、自分と同じタビットのようだった。
その手には白いハンカチ。同じ白いふさふさの手。同じ目線の異性。
これまでミラボアに来てから何人ものタビットに出会ってきた。
親しく声をかけられたこともあったし、告白のようなことをされたこともあった。
しかしそれまでのどんな言葉、行動よりも彼の何気ない救いの手がとても嬉しかった。

「あ……あの、ありがとうございます。もう、大丈夫です――あの……」

そうやって立ち上がり彼女がお礼と、その姿をはっきりと確かめようとした時、

「はっ！こうしちゃいられませんっ！お嬢さん、気をつけて帰るんですよっ！そのハンカチは差し上げますですっ！」

文字通り脱兎のごとく、彼は去っていってしまった。
彼女はその背中を追おうとしたが、雑踏の中をすいすいと通り抜けていく彼を捉えることができない。
ついにはその姿を見失い、手に白いハンカチを握り、呆然と立ちすくむ彼女の姿があった……。

しかし彼女はそれまでの泣き虫な彼女ではなかった。
彼女の未来に明確な目標ができたのだ。
何がそうさせたのかはわからないが、彼を見つけなければならないという気がした。
彼に頼って甘えて、助けてあげて暮らしたいと思った。
そして誰かに頼る事は悪い事ではないという事、そして誰かのために生きるということの喜び。
当たり前のことをこの小さな体験で知った。
なぜだかわからないが、手を差し伸べてくれた彼にもう一度会いたくなった。
そしてお礼を改めて言い、握り締めたハンカチを返したかった。
シナモン＝ラベンダー、初めての恋だった……。

もう彼女はそれまでの彼女ではなかった。
目に光が宿り、頬に赤みが差し、心臓は熱くビートを刻んでいた。
彼女はそれまでの自分の人生を、自分の手に負えない何か大きなものに流されていると感じていた。
しかし彼の手を握った時、自分の人生も同時に握ったような気がした。
その冷え切った心に人の温かみが流れ込んできたような気がした。
もう下を向いて、何かに急かされるような人生ではなくなった。
目標が出来たのだ。それに向かってゆっくり着実に歩んでいけばいいという奇妙な確信があった。

その後、いろいろなところを探したり聞いて回ったりしてみたが
タビットだらけのミラボア、簡単に見つかるはずもなかった。
そこで突拍子もない事を思いつく。それまでの彼女なら思いもつかない事だった。
自分が有名になって、彼の目に止まるようになればいい。
手っ取り早く、自分の小さな体を生かして有名になるにはどうすればいいだろう。
その目に大きな剣を担ぎ、綺麗な宝石を手に誇らしげな顔で自治区へと向かう冒険者の姿が写った。
それを見た彼女は導かれるように、その後を追っていった……。